コーヒー豆を入れた麻袋を素材に使ったバッグ「ホロホロビヨリ」。特徴的な絵柄と素朴な風合いで人気を博している。4月からは夫婦二人体制となった。“クリエイター”と“個人事業主”のバランスを取りながら、ホンマユキさんはポップアップの次を模索しているという。
text by 事務局スタッフO
世の中でクリエイターを名乗る人は少なくない。昨今のCtoCマーケットの盛り上がりに付随して、趣味としてお金を得る人は増えてきた。だが、収入の柱“仕事”として生計を立てている人はどれほどいるだろうか。 2020年10月のPLUG INに出展したアトリエ想木(想木と書いて「おもい」)のバッグブランド「ホロホロビヨリ」。海外から輸入されたコーヒー豆が入っていた麻袋を素材にバッグや小物を制作している。この出展をきっかけに百貨店のポップアップが次々と決まった。クリエイターとしてものづくりを追求しながら、しっかりとビジネスを軌道にも乗せている。昨年12月(取材は2022年7月)に引っ越したばかりのアトリエを訪問して、「これまで」と「これから」をインタビューした。
「宮城のすっごい田舎の生まれで、ホントほっぺたが真っ赤で田舎の女の子丸出しの、ファッションのファの字もないような生い立ち(笑)。ファッションに目覚めたのは中学校のとき。同級生が塾に着てくる私服がオシャレでドキドキして。どうやったらそんなファッションに出会えるのって」
ファッションに目覚めたきっかけを尋ねると、ホンマユキさんはそう話し出した。ずっとファッションの世界に入ることを夢見ていたけれど、別分野の大学に通うことに。
しかし家庭の事情で中退。その後上京し、ジーンズカジュアルの店舗で販売のアルバイトを始めたのがファッション業界との初めての接点となった。店舗が入っていた商業施設の担当者がホンマユキさんのディスプレイを褒めた。
「あなたが店頭のディスプレイをすると売れるねって言ってくれたの。それで嬉しくなって、ディスプレイってこんなに面白いんだって。それで入ったのが文化のディスプレイ科」
奨学金制度を活用して文化服装学院のディスプレイ科に入り直し、髪の毛をピンクに染めて、どっぷりとファッションの空気に浸りながら学んだ。
「当時はディスプレイ専業の会社がまだあった時代。文化で勉強したことは、百貨店を軸にしたことばっかりだったので、だんだん興味が薄れてしまったんです(笑い)。20代の頃は百貨店ブランドに興味なかったから。でも、ファッション業界だけには居たいなと思って、求人誌で探したのが服飾資材の営業職」
すでに時代は平成になっていたが、会社は“ド昭和”体質。連日の接待と激務。土日も中国の工場とやり取りしなければいけない。
「30歳くらいだったかな。もうとにかく激務で。家に帰ってコンビニ弁当を食べながら、ひとくち食べてそのままテーブルに突っ伏して寝てしまったり(笑い)。咀嚼無しで朝起きるとか」
結局、体を壊してしまって、事務職の会社に移った。その時に出会い、結婚することになるのがホンマイサムさんだ。結婚後はしばらく専業主婦を経験したという。
「専業主婦って言っても、ほとんどニート生活。家事以外は朝と夕方、2ミリしか動いてないみたいな。でも、半年もすると飽きてきちゃって。それで飼っていた犬のために服を作り出したんです」
飼い犬のチワワに犬用の既製品を着せていたが、色柄が自分の好みのものがなかったり、お尻の部分がめくれ上がってしまうのが不満だった。そこで専門学校時代に課題用に入手していたミシンで犬服を作り出した。
「当時はブログが全盛期で主婦ブロガーとか多かったんです。日常を書く以外に、ブログ内でハンドメイド品を販売するみたいなのが流行っていて。それでやってみようかなと思って、販売してみたら、最初から注文が入ったんです。一気に100枚とか。当時はビジネスなんてぜんぜん考えてなかったから、値段も周りが1,000円だったらじゃあ1,000円にするとか。それで売り切れたら終わりっていう。でも、やっていくうちにだんだんフラストレーションがたまっていって。カートオープンして注文が入ると2,3ヶ月は制作に拘束されるし、サイズオーダーに応えるという暗黙のルールがあって。基本サイズはあるものの、1ミリ単位で自分の子のために作ってくれ、という世界。で、私はこれをやりたいわけではないというのが明確に出てきたんです」
最初は自分が作った作品が売れることが単純に嬉しかった。しかし、やがて受注することが苦痛になっていった。ただ、作ることはやっぱり楽しいと感じる自分がいた。
「いろんな犬種があって、いろんな毛色があって、ワンちゃんにどんな服を着せるかで、飼い主から見た犬の背中がアートの世界になるって、思ったんです。犬の背中が作品というか、キャンバスになっているから、犬服がめくれてアートが壊れたら台無しになる。だからめくれないように縫製をしっかりとして」
この体験が現在のコーヒー豆の麻袋を素材に使ったバッグの源流となった。ブランド名の「ホロホロビヨリ」が生まれたのもこのときだ。
やりたいこと、やりたくないことが明確になっていった。「仕切り直したい」。そう思ったときにイサムさんの海外赴任、渡米の話が持ち上がる。
「私、イサムさんに酷いこと言ったの。私の時間を奪いやがって(笑い)。やりたいことがぱっと明確になって、ちゃんとビジネスとしてやっていきたいと思ったときに渡米することになった。これから立て直そうとしているのに」
そうは言いながらも米国赴任についていくと決めたし、アメリカで「ホロホロビヨリ」再始動の準備は何かしらできると安易に考えていた。赴任先は米国南部のテネシー州。イサムさんは一部上場企業のサラリーマンだった。
「いわゆる駐在員の妻、専業主婦、再来みたいな(笑い)。最初のころは英語もぜんぜん喋れないし、クルマの運転もおぼつかない。渡米してすぐのころは日本人の先生に英語を習っていたけど、やっぱり甘えが出ちゃってダメだった。だからネイティブからちゃんと勉強したいと思って。ダウンタウンにいい先生を見つけて、その人のレッスンを受けるためにクルマも自分で運転するようになって。そしたら、もう一気に不良主婦になっちゃった(笑い)。クルマでどこにでも行っちゃうように」
ネイティブの英語教師から地元で人気のスポットやカフェなどを教えてもらい、自分でクルマを運転して足を伸ばした。週末はクラフトマーケットや蚤の市に行くようになった。
「ナッシュビルでテネシークラフトっていう有名なマーケットがあって、クラフトビジネスをしている人たちが集まっていたんです。ソーイング、バッグ、レザー、木工、蹄鉄、ウェスタンブーツとか。日本の青空市の比じゃない規模。日本で経験した1,000円とか2,000円で売るようなかんじじゃなくて、みんなビジネスとしてちゃんとやっていた。すごく刺激を受けて、この経験が『ものづくりでゴハンを食べていきたい』と思った最初かも」
クラフトマーケットでビジネスしている人たち、身近では英会話の先生もレッスンで生計を立てていた。個人事業主の暮らし方に触れた。コーヒーの麻袋に出会ったのも、そういった人たちが集まる蚤の市だった。
「もともと牛舎だったブースにものすごい数の麻袋が全面に飾っていて、わっーーとなってしまって、ほんとに動かなくなってしまった。あまりに感動して。この素材のとりこになってしまったんです」
その日以来、蚤の市に足を運んでは少しずつ麻袋を買い集めていき、この素材を使って、バッグを作る、そのイメージが固まりつつあった頃、3年間の米国赴任も帰国のタイミングが迫っていた。
一方でイサムさんの現地での仕事は多忙を極めていた。現地事業の建て直しの時期と重なっていたからだ。イメージしていた駐在員暮らしとはまったく違った。
「普段は朝の6時頃に起きて出社すればいいのに、突然(行く必要も無いのに)夜中の3時に起き出して仕事に行くと言い出したり。あるときはそれが夜中の1時になったり。かなり精神的に参っていたんだと思います。だから、この人の精神を保たないといけないと思って、なんの根拠もないのに(当時45歳だったイサムさんに対して)50歳までに会社を辞めさせてやるって言ったんです」
イサムさんに先立って帰国したユキさんは、米国で収集していた麻袋と日本の焙煎所に直接掛け合って譲ってもらった麻袋でバッグを作り始めた。
「麻袋の素材の特徴って調べれば調べるほどダメなところしか見つからない(笑い)。堅牢性もそうだし、ケバケバするし。工程や品質はやりながら、進化していくしかなかった」
麻袋を原料にするためには洗って干してアイロンをかける、それらの工程が不可欠となる。その一つひとつに工夫を積み重ねながら、品質を高めていった。
「1000人に一人でもネガティブなことを言われると、二度と言わせないと負けず嫌いなところが出てきて、意地になって工夫していった」
教科書には載っていない素材。試行錯誤の連続だった。普通の布よりも湿度に敏感で、最低でも連続して3日間晴れている日を選んで干す必要がある。表面の柄を歪みなく再現するために裏から“感覚で”アイロンを当てていく。二人が「整え」と呼んでいる作業は職人技だ。
バッグを作り始めた当初、販路はCtoCマーケットだった。犬服を封印して初めて出店したマーケットイベントでの売上は0円、まったく売れなかった。
「悔しくて悔しくて、泣きましたよね。なんで売れないんだろうって。それから出るマーケットイベントをいろいろ変えていったけど、売れても10個くらい。CtoCのイベントってお祭り的なところがあるけど、ほんとにこれで食べていけるのって。その時の価格は2,900円とかにしていたんですけど、ある時アレって思って。ニッチな素材ということはお客様に伝わっているけど、その価値がぜんぜん伝わっていないなって」
その時期、クリエイターでも百貨店に出られることを知り、どうやったら出られるのかを調べたという。百貨店に出てこの商品の価値を伝えたい。そして最終的に行き着いたのが展示会への出展だった。
2019年秋の合同展に出展を決めた。その年の春に転機が訪れる。日本橋で開催されていたCtoCマーケットイベントに参加していたときのことだ。麻袋を素材に使ったベレー帽に興味を持ったお客様に接客していた。嬉しくて丁寧に説明して、お買い上げのときにテーブルの前に出て手渡した。
「『普段はこういうところで名刺は出さないんだけど、今度打ち合わせしましょう』って」。
そのお客様は大手百貨店のバイヤーだった。
「びっくりしたんですけど、すぐに連絡をもらって『この前はちゃんと接客してくれたから。百貨店に出ませんか』って。その時にバイヤーさんから『いいものを作れる人はゴマンといるけど、百貨店に出てちゃんと接客ができる人は限られている』とおっしゃってもらえた」
その方に、価格帯はこのくらいまで上げたほうがいいであったり、ラインアップはこうしたほうがいいというアドバイスをもらったという。
「だから、初めての合同展の前に既に百貨店への出店が決まっていたんです。その翌年に出展したのがPLUG IN」
PLUG INでは全国の百貨店からたくさんの引き合いがあった。阪神百貨店、日本橋高島屋、小田急百貨店…。
「PLUG INの良かったところはぎゅうぎゅうのところに詰め込まないところ。前年に出た合同展は学園祭みたいで、ぜんぜん商品の説明ができなかった。狭いところでリーフレットを配るだけになっていて。だから出展後に商談のお願いをしても、ぜんぜん覚えてもらっていなかった。でも、PLUG INはしっかりと担当者を足止めできる。ちゃんと説明した上でリーフレットをお渡しできて、覚えていただく時間が取れたのが大きかった」
2年前の出展以降もPLUG INが企画する撮影会に参加している。
「撮影会もすごくありがたい。なかなか個人でモデルさんとかカメラマンに何十万も払うのってできない。バイヤーさんに『外国人のお友達がいるの?』って訊かれる。だから『PLUG INの撮影会で』って答えると『PLUG INってそんなにクリエイターに優しいの!?』って驚かれるんです」
今年の4月からイサムさんが「ホロホロビヨリ」に加わった。勤めていた会社を早期退職した。アメリカに居たときに50歳までに会社辞めさせてやると言った。ちょうど50歳だった。イサムさんが勤めていたのは一部上場企業だったし、安定は手に入れていた。
「でも、もともとやりたいから始めた仕事じゃなかったし、やりたいことを持っていたわけでもなかったんです。だから、会社を辞めていく人が羨ましかった。やりたいことを見つけたわけですから」とイサムさんは言う。
PLUG INの出展を機に、年間で販売の機会が確保できるようになっていた。
「一人でもっと頑張れるかといえば、限界だった。在庫量の問題とか。手が足りないってかんじだった」
ユキさんはそう語る。
それはずっとユキさんを見てきたイサムさんも気付いていた。徐々に自分にも貢献できることがあるのでは、という思いが芽生えてきたとイサムさんは言う。
「私は主婦だから『旦那さんが働いているから好きなことをやれているんでしょ』って見られて、頑張っていることがないがしろにされる。だから、イサムさんにも『自分でお金をかけて習いに行きなさい』って言ったんです。そしたら、文化の生涯学習コースに通いだして。そのあとで『ホロホロビヨリの一部として手伝いたい』と言ってきたんです。でも、私と対等にできないでしょ、って偉そうなことを思った。未経験な人を教育する時間的余裕もないし。だから最初は値札付けとか簡単なことしかお願いしていなかったんですが、私がポップアップをひとりでやっているあいだにミシンの練習をしていたんです、イサムさんが。ちゃんと努力していたのを知って感動しちゃった」
二人体制になった当初は夫婦で生活も共にする間柄だから、どうしても仕事ではピリっとしないところもあったという。その都度、話し合って解決し、自分たちの仕事のスタイルを確立していった。今では「整え」の工程はイサムさんがすべてを担うほどになった。
昨年12月に移り住んだ厚木市の古家をアトリエ兼住居としている。周りはのどかで窓からは大山の青々とした姿を望むことができる。麻袋を干すことができる庭があることが絶対条件だった。
最後に、これからの目標を聞いた。
「正直言って、模索しています。説明をする前に『ああ、SDGsブランドね』みたいに決めつけられるところがあって。自分たちのクリエーションをもっと表現できる場所とか方法ってあるのかなって考えています。現行のものに加えて、屋号を背負ったアトリエ想木のプロダクトも作りたい。シンプルでもストーリー性のある素材を浸透させていきたい」
直近のポップアップではホロホロビヨリ史上、最高の売上を記録した。応援スタッフ含めて3人で売り場に立った結果だが、達成感とともに“量”の世界に踏み込むことに危機感も覚えた。
「クリエイターは量産品とは違うものを乗せられる仕事だと思っている。最低限の生活はしないといけないけれど、そこに“人間くささ”を乗せられる仕事かな。青臭い思いっていうか。だからこそ、自分のスタイルとして、気持ちを伝えられる方と一緒に仕事がしたいし、次に展示会に出るときは二人で伝えたいことをもっと明確にしてから出たい」
商談につなげていくことに一生懸命だったという2年前の合同展出展から、確実にホロホロビヨリは次のステップに向けて動き出している。
インタビューでアトリエをお邪魔した時、麻袋を譲ってくれている焙煎所が煎った浅煎りのアイスコーヒーをいただいた。まったく雑味がなくてスッキリしていた。
ものづくりに向き合うお二人のようだった。